能ガキブログ

能楽初心者が未知の楽しみを追求するブログ

観世能楽堂で「土蜘蛛」鑑賞

昨年12月11日(月)にGINZA SIX内にある観世能楽堂で開催されたイベント「TOKYO GINZA 能」に参加しました。2回目の能楽鑑賞になります。

インバウンド向けのイベントで、外国の方が多く参加されていました。料金3,000円というリーズナブルな設定は外国の方も参加しやすいようにとの配慮だったのかもしれません。お得に観世能楽堂に入れてラッキーでした。

観世能楽堂は、私が初めて能を鑑賞した国立能楽堂よりも狭く、橋掛りも短めでした。インバウンド向けのイベントだったためか、とても賑やかで、国立能楽堂の物静かな雰囲気とのギャップも凄かったです。

前半30分は楽器のワークショップがあり、舞台上で囃子4名がそれぞれの楽器の説明をされました。

後半25分で「土蜘蛛」の後半部のみを鑑賞しました。蜘蛛の糸が飛び交う派手めの演出で、外国人の方々にウケていたように思います。

私が初めて能を見た時に感じた、冗長な要素が極力排除されたイベント構成で、飽きさせない内容であったように思います。ただちょっと外国人ウケを狙いすぎてる感もあり、観客を甘やかさない能の気高さみたいなものが感じられず、消費される芸能の匂いがあり、ちょっと残念にも思いました。

もしかしたら、蜘蛛の糸もいつもより多めに撒かれたのかもですね。

能は観客を甘やかさない

前回の投稿で触れた書籍の著者の安田登さんが、メディア環境研究所のサイトで能楽師の視点からVRを論じられていました。

mekanken.com

そこに、「鑑賞側の能動性が求められる」能の特徴が端的に表現されていたので、ここに引用します。

能を初めて見た人の大半は「わからない」と思います。能楽師はわざと半分ほどしか情報を見せない。そこには「これを知りたかったら、あなたたちがここに来なさい」というメッセージが込められています。「自分には理解できない」と思った観客は、そこで諦める人もいます。しかし、さらに学んで修練しようと考える人がいます。前者に与えられる芸能は他律(ヘテロノミー)の芸能。ハリウッドの映画などがそうですね。しかし、能は自律(オートノミー)の芸能です。自律的な芸能は、その人が進歩すればするほど面白くなる。

能は観客を甘やかさない。それはその人を信じているからです。ARやVRも、すべてを提示するのではなく、ユーザーを甘やかさないことが大事なのだと思っています。

私のように、何だか分からないけどハマってしまう能の秘密は、ここにあるのかもしれません。

能は幻視を発動させる装置

2冊目として、こちらの本を手に取りました。

著者は、初めての能で「松風」を鑑賞中、水面に浮かぶ月の風景を幻視したそうです。それをキッカケとして能にハマり、能楽師にまでなられています。本書は入門書に相応しく、能楽の歴史や、特徴や仕組み、効能などがカバーされていました。

能は消費の対象ではない

最も印象的だったのは、エンタメを消費するという感覚です。

私たちは映画などをお金を払って「消費」していると著者は主張します。つまり、受け身な姿勢で鑑賞している。現代人にとっては当たり前のことなのですが、能は「消費」の対象ではないようです。

能は、鑑賞側の能動性が求められ「観る」のではなく、能と「共に生きる」心構えが必要だとあります。具体的には、以下のような行動が「共に生きる」ことになります。

  • 詞章(セリフ)を声に出して読んでみる
  • 謡や仕舞を習ってみる
  • 聖地巡礼をする、など・・

なかなかハードル高めですが、そうする事で「妄想力」が鍛えられ、能の見え方が変化するようです。こんなに要求が多いエンタメもあるんですね。笑

そもそも能は、限られた要素を使って鑑賞者の妄想力を刺激し、幻視を発動させる装置とも言えるようです。そういった考え方は今のARやVRにも通じるものらしく、改めて能が見直されています。古典と最新技術の融合ってなんかカッコ良いですよね。

能は眠くなったら寝てもいい

前回、基礎的な知識ゼロで初めて能楽を鑑賞したので、とりあえず基本情報を押さえようと、こちらの本を手に取りました。

マンガの割にはじっくり読む部分も多いのですが、入門書として楽しく能楽を学べました。シテって何?というレベルの、鑑賞時に感じた初歩的な疑問点がうまくカバーされていて、学びが多かったように思います。

能は眠くなったら寝てもいい

救われたのは、能は眠くなったら寝てもいい、という言葉。実際、鑑賞中に爆睡している方を多く見かけたし、私自身もしっかり寝落ちしました。鑑賞中に眠ってしまったら、その作品はつまらなかったと判断されるのが一般的な認識だと思いますが、能は勝手が違うようです。

本書によると、能の謡や囃子はとても心地の良いリズムで、心臓音に近いとか、脳からα波が出るリズムとか言われていて、鑑賞者は一種の瞑想状態に入ることもあるらしいです。うつらうつらとして眠ってしまっても、寝て起きてを繰り返していると、だんだんと現実と夢の境目がなくなると、まさに「夢うつつ」の状態になる。その状態を味わうのも能の楽しみ方の1つである、とありました。

実際、鑑賞後は頭がスッキリとしていました。舞台上の展開に集中するだけではない鑑賞スタイルの自由さに、懐の深さを感じました。

また前回触れた、私が鑑賞中に感じたトリップした感覚と似たようなものを著者も感じられているようでした。本書導入部には

なんだろう、この感覚。興奮するような、癒されるような。宇宙?これが・・ジャパニーズカルチャー・・・?

と宇宙空間の上に主人公のネコが浮かんだ絵が描かれていました。これはトリップしてますね。笑

やはり、何かしらの気持ち良さを感じられてる方はいらっしゃるんですね。なんかホッとしました。そもそも、寝落ちしても、トリップした感覚になっても、夢うつつになっても、それぞれ個人の楽しみ方があるのが能楽鑑賞である、ということなんですね。

能の初体験でトリップした話

国立能楽堂

先日9月13日(水)に千駄ヶ谷国立能楽堂で初めて能楽を鑑賞しました。

予備知識ゼロは無謀だと思い、今回はワタリウム美術館のイベント能楽の魅力を知る」を通してチケットを購入し、大倉流小鼓方十六世家元で人間国宝でもある大倉源次郎氏の解説付きで臨みました。

当日、開演1時間前に国立能楽堂事務所で30分ほど大倉氏の解説を聞きました。演目の内容が書かれたプリントをいただき、18時から鑑賞へ。

今回の演目は

  1. 舞囃子「賀茂」
  2. 舞囃子「須磨源氏」
  3. 狂言「福部の神」
  4. 一調「松虫」
  5. 袴能「天鼓」

能楽は1回の上演で何曲か続けて鑑賞するものらしく、今回は全部で5曲。最初の4曲は1曲10分くらいと短めでテンポよく進み、最後の曲「天鼓」は80分と長め。3番目の「福部の神」の後に15分休憩が入り、上演時間は合計で2時間50分。

能と狂言の違い

演目3曲目に狂言とあるが、元々同じ1つの芸能(猿楽)であったものが、能と狂言の2つに分かれ、今はそれら2つを合わせて能楽と呼ぶらしい。特徴として「能」の主人公が主に死んだ人であるのに対し「狂言」は生きている人が多いと対照的。まさに陰陽相成す*1

  陰陽 主人公 特徴
死んだ人 人間の内面に深く切り込み苦しみや悲しみにフォーカス
狂言 生きている人 笑いや風刺を中心とした開放的な庶民劇

袴能とは

5曲目にある袴能とは、通常、登場人物は衣装として能面や能装束などを着て舞台に立つが、それら無しで紋服に袴のままで演じる能のこと。夏の暑さを凌ぐために対応したクールビズ的な発想らしい。個人的には、見た目の派手さも楽しみたいと思っていたので、少し残念でした。

初めての能楽鑑賞で

席は舞台正面席の前から3列目のA席(7,000円)。会場のライトは明るいまま、しれっと演目が始まる。

プリントを読みつつ鑑賞していたが

「何だか地味だな・・・」

全てがのんびり展開している。動きも小さいし、セリフやナレーションに当たる謡も伸びやかでゆっくり。動画を1.25倍速以上で見ている現代人しては、倍速で飛ばしたい気持ちに襲われてくる。

休憩時間までの前半は、各演目が10分くらいで変わるのでなんとか我慢できていたが、一番最後の演目は80分。しかも今回は袴能なのでみなさん見た目も地味。

「自分には能はまだ早かったのかもしれない・・」

ちょっと大人ぶってしまった過去の自分に後悔すら生まれてくる。退屈さがあるレベルに達したのか、いつの間にか寝落ちしていた。

これを瞑想状態と呼ぶのだろうが、寝ていても頭の中で思考できている。

「待てよ。袴能が存在するということは、能装束などの見た目の派手さは、能の本質ではないか?もしそうならば、鑑賞者側の見方が普通と違うのかもしれない・・」

などと思っている自分がいた。そこで試しに視点をちょっとズラしてみた。演者に注目するのではなく、その周辺というかシルエットというか、演者と演者の間というか、舞台上の空間を意識して見てみた。すると・・

「あれ、なんか演者のシルエットが美しい・・」

地味だった反復運動が、少しずつクセになってくる。さらに囃子や地謡の方々が奏でる音が動きと同調してきて、

「うわー気持ちよー・・・・」

気づいたら80分の演目が終わっていた。

「何これ・・・時間忘れてた。」

完全にトリップしていました。従来のエンタメとは何か違う能に、ムクムクと興味が湧いてきたのです。

*1:誠文堂新光社 マンガでわかる能・狂言 参照